性風俗の歴史


日本の性風俗歴史年表

昭和21年 GHQによる「公娼廃止に関する覚書」の発令、娼婦の取り締まりの名目で旧遊廓と公娼制度を「赤線地帯」に残す事になった。
昭和22年 吉原の女性達が集まり「新吉原保健組合」を設立および「日本国憲法」を制定
昭和23年 日本政府は「風俗営業取締法(風営法)」を公布、9月施行されました。
昭和24年 RAA解散により、娼婦およびパンパンの増加、この事により性病の蔓延化が進む。東京都「売春取締条例」を発令。
昭和25年 婦人矯風会ら「公娼制度復活反対協議会」を結成吉原で25年ぶりに花魁道中が復活、「婦女に売淫させた者等の処罰に関する勅令」国内法に婦人矯風会ら「売春禁止法制定促進委員会」を発足
昭和26年 東京銀座に「東京温泉」の開業、日本でのトルコ風呂の基礎原型となる。
昭和30年 日本政府、売春問題の増加に対し立案し「売春問題連絡協議会」をこの日閣議にて了解、この機関を内閣にを設置しました。
昭和31年 日本政府「売春防止法」を公布
昭和33年 吉原が赤線廃業宣言、悲しいことに吉原の終焉を迎えた。「売春防止法」施行。吉原に元赤線業者が経営するトルコ風呂「東山」開店
昭和37年 「パンマ」と呼ばれるあんま師(マッサージ)売春の流行
昭和41年 「風営法」改正によりトルコ風呂を「個室付浴場(サウナ)」として許可。
昭和52年 警視庁が、売春関係事犯の全国一斉取締で700名以上検挙した。
昭和53年 初の「ノーパン喫茶」の誕生です。
昭和55年 ラブホテルを利用したホテトルやマンションを利用したマントルが急増し、デートクラブ、ビニ本、裏本などがメチャ流行しました。
昭和56年 ノゾキ部屋、トップレスヘルスなど新手のピンク商法が出現。
昭和57年 素人の売春行為が流行る「愛人バンク」などの買春システム等もあった
昭和60年 「風俗営業の規則及び業務の適正化等に関する法律(新風営法)」施行。「トルコ風呂」が「ソープランド」に名前を変える
昭和61年 海外在住男性同性愛者を日本人初のエイズ患者と認定
昭和62年 ソープランド開店休業状態により、個室ヘルスが流行する
昭和63年 厚生省が日本国内でのエイズ患者を確認する。一時パニック状態が起きる
平成1年 ダイヤルQ2が登場ソープランドの減少、デートクラブの摘発増加
平成3年 ブルセラショップ登場
平成5年 外国人女性に対する売春取締が厳しくなる
平成6年 ホテトル、テレクラの増加1991年の宮沢りえの写真集「サンタフェ」からヘアヌード写真が認知されて行き、この年本格的なブームになる。
平成7年 女子中高生によるデートクラブの増加
平成8年 カップル喫茶が流行る
平成9年 イメージクラブ、SMクラブ流行女子中高生の援助交際増加いわゆる援交ブーム
平成10年 外国人(主に東南アジア女性)の性的エステサロン、マッサージ店増加
平成11年 デートクラブ摘発増加バイアグラ登場
平成12年 「児童買春、児童ポルノに関わる行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律」制定。児童買春、その周旋・勧誘、児童ポルノの販売、等に関わる者への処罰が定められる。
平成13年 「新風営法」改正によりテレクラの規制強化
平成17年 東京都迷惑防止条例が改正される」この改正により客引き行為の規制、営業禁止区域の強化、スカウト行為の禁止等風俗やアダルト業界関係者にとって、厳しい措置が取られるようになる。

戦後の赤線、青線地帯

戦後の赤線、青線地帯

GHQとはGeneral Headquarters(総司令部、総本部)の略で、1945年にアメリカ政府が設置した対日占領政策の実施機関で東京に設置された管理機関の意味。

1952年にサンフランシスコ講和条約発効とともに廃止されるまで日本を支配していた。

RAAとはRecreation and Amusement Association(保養慰安協会)の略で、戦後に作られた進駐軍向けの風俗営業施設、または施設のある地域の事を意味します。

赤線・青線とは、RAAが解散した事により職を失った女性が数多くおりその女性達が街娼となり、街娼のいる地域は「特殊飲食店」と呼ばれ、売春が許可されていました。

その売春が許可された地域(特飲街)の地図を警察が赤く囲んだ事から「赤線」、その周辺の私娼街、つまりは飲食街の営業許可だけで非公認の売春を行う店が集まっている地域を地図上に青く囲んだことから「青線」と呼ばれるようになっていたようです。

現在では完全に死語ですが、「パンパン」とは、RAAの閉鎖により失業する女性が増加したが、その女性達が夜の町角で再び春を売るようになった当時の売春婦の呼び方。

「パンマ」とは、「パンパン」と「アンマ師」を掛け合わせた造語で、売春を兼ねたマッサージ師のこと。1952年頃に隆盛を迎えた風俗形態。 売春防止法施行により失業した女性などが、
ホテルや旅館に表向きはアンマ(マッサージ嬢)として出向き、裏では売春を行っていた。


江戸時代の性病・治療

江戸時代の性病・治療

梅毒は十五世紀になって、琉球、長崎、境のような貿易港から日本に上陸した。医療の発達していない当時の日本では、梅毒や伝染病に関しての治療は皆無に等しかったようですが、梅毒について言えば感染してもすぐに死んだりするわけではないので梅毒と上手に付き合うような気持ちを持って生きていた人が多かったようで、どちらかと言うと、病に対し冗談を言ったり親しむ傾向があったそうです。

当時、治療法と言えば現在のような抗生物質も無いため、薬として用いられたのは「山帰来」といって、茎のとげにサルが引っかかって人に捕らえられるというので 「猿捕りいばら」の別名がある植物で、漢方では梅毒に効くとされていましたがほとんど効果は無かったようです。

遊郭で身を売っている遊女が性病になり、仕事が出来なくなると別室へ移される、毛が抜け落ちて、治る事の無い病に耐えてじっとしているのだそうです。

吉原ではこれを「鳥屋につく」と言われ、遊女は妊娠することを嫌い、梅毒にかかることで妊娠しにくくなる為、一人前の遊女であると言われたようです。そんな遊女が懲りずにまだ身を売るわけですから、病気も蔓延します、恐ろしい話です。

また、良く客を取る売り上げの高く位の高い遊女なら自分の稼ぎを使い、別荘で養生することもができたようですが、人気の無い身分の低い遊女は、可愛そうですが暗くて寒いふとん部屋などに放り込んだまま放ったらかしで、食事も満足に与えていなかったようです。

また病状が進み容貌が崩れてしまうと、客も来なくなる為、遊女たちの値打ちが無くなり、追い出され、立ちんぼとして街角に出没したりしたそうです。

悲惨。


遊郭と性病

遊郭と性病

江戸には幕府が公認している吉原遊郭のほか、ありとあらゆる場所に売春街や女郎屋があり、また、街角では夜になると幕府非公認の夜鷹(現在で言う立ちんぼ)が出現していました。

とにかく江戸の町は売春が横行していたようです。
 
当時吉原の遊女というと特別な存在で、また売春を行っている遊女と夫婦になるということは単に売春婦と結婚すると言うような感覚ではなく、当時の遊女は頭も良く教養もあった為、遊女を娶るという事、それは男の憧れであり、ステイタスでもあったようです。現在とは感覚が違い、幕府公認で世間も認めた場所で働いている女性と夫婦になるということもあり、けっしてスキャンダルではなく、ややこしい話ですが、借金の為、仕方なく幕府公認の遊郭で働いている、美人で教養もある素晴らしい女性を、お金を出して助け出し、夫婦になるという、お涙ちょうだいのお話かもしれません。

もちろんお金が無くてはそんな事到底出来るわけも無いので男の甲斐性でもあったわけです。

そんなお涙ちょうだいのお話もありますが、そんな話はほんの僅かでしかなく、遊女自体は悲惨な人生である事には違いない、14〜5歳で連れてこられ、毎夜、不特定多数の客と相手しなければならない為、勿論性病に侵されるわけで、当時もちろんコンドームなどは無く、梅毒や淋病などの性感染症に対しては無防備極まりない状態でした。遊郭には性病が蔓延していて、恐ろしい事に遊郭で遊んで性病に感染する確立は30%〜40%の確立だったそうです。もちろん抗生物質などあるわけも無く、感染すると、完治することは無いのです。

また、医学の全般の知識が発達していないこの時期、性病などで働けなくなった遊女は養生小屋の別荘へ送られました。そして運が悪い場合はそのまま寂しく死んでゆくのです。
(遊女達の平均死亡年齢は20代前半だったようです)


江戸時代・吉原誕生

〜江戸時代・吉原誕生

17世紀に入り、関が原の戦い以降、長く続いた政局不安は終わり、徳川家康が征夷大将軍に就くと自領である江戸の地に幕府を開き、産業・教育の振興その他の施策に力を入れます。

そして有名な吉原遊郭もこの時期に誕生します。

この時期江戸では50万人以上が生活しており、当時としては世界的に見ても大都市であったようです。当時、男女の人口比率は男性の方が圧倒的に多く、また、参勤交代で地方から男の武士達ばかりやってくるので江戸の町は本当に男だらけだったようで、当然あっちの方も元気なわけで、娼婦が街中に出没するのは自然の成り行きだったようです。

当時、大阪、駿河では既に幕府公認の遊郭があったが江戸にはまだ無く、風紀を統制する為、先の大阪、駿河に習い、遊郭を造り、そこへ娼婦などが集められた。

吉原というのは実は「元吉原」と「新吉原」があり、元々は日本橋葺屋町にあった湿地に作られたが、吉原遊郭歴史の中で営業していたのはたった四十年だけで、しかも昼間しか営業の許可がされておらず客層は昼間からうろうろしているような武士が中心だったそうです。その後、江戸は更に開発され繁栄し、元吉原が江戸の中心的な場所に存在していた為、幕府はその事を余り快く思っておらず、また、江戸の大火により吉原も全焼、それを機に江戸の端っこ、現在の地へと移されてしまったようです。と同時に違法の売春婦や売春宿も閉鎖され、あふれた売春婦も新しい吉原へ。

新吉原では、夜の営業が許されることになり、客層も武士から町人の客へと変化していきました。売春婦も増え、最終的に7000人を越えるまでになり、新しい吉原は幕府の公認の下、明治時代まで繁栄する事になったそうです。

現在一般的に「吉原」と呼ぶのは新吉原のことです。


室町時代の性風俗

室町時代の性風俗

14世紀初頭、年足利尊氏が幕府を京都に開いてから、16世紀末に信長が幕府を倒すまで約240年間の間、都の貴族や僧が、戦乱をさけて地方へ文化をつたえたため、独特の地方文化がうみだされた。
金閣寺銀閣寺など華やかな文化財ががたてられ、現代の和風建築のもとになった書院造りが生まれ、有名な数々の庭園がつくられた。

また、水墨画が大成され、軍記物の『太平記』などが生まれた。

室町時代には連歌が流行し、『浦島太郎』などのおとぎ話が多くの人々に読まれたようになり文化面での発展も数多く記されています。

この時代の売春婦たちは、ほとんどが遊行女婦と呼ばれ、芸を見せる傍らやはり性を売っていて、売春婦達は身を売る他に、低俗ですが男と女が観衆の前で性交を行う見せ物をしたり、犬と女との間での交わりをを見せ物とし、金品を稼いだりしたようです。

そのような性の見世物のひとつに「歌舞伎踊り」というものがあり、出雲の巫女であった阿国が女性だけの一座をつくり、宝塚のように男装して踊ったのは有名である。


性風俗の日本史概要

性風俗の日本史概要

売春の歴史は相当古く、当時金銭と交換に性行為を持つというより、行為自体が宗教的であり、現在とは全く違うものとして扱われていた。男達は神に仕えている巫女と性交を持つことで神に近づけるというような崇拝的な考えがありました。

当時の巫女さんは、現在とは全く存在の意味は違いますが売春婦の先駆けのような人達で、どこの誰かもわからない子供を生みはしましたが、その子供達は神の子とされ、子供のいない夫婦の間に渡されたりしたそうです。

話は鎌倉時代にまで進みますが、当時のお金持ちや富豪の家には都の貴族や政府の高官が旅の途中立ち寄る習慣があり、その際、家の主人は自分の妻に泊まった人達の身の回りの世話や夜の相手までさせていたようです。

その後、客の接待には専属の女性を雇うように変化し鎌倉時代中期以降は、それが更に変化し金銭を目的とした売春に変わっていったようです。

また、港の商屋が顧客や船のり達を家に泊め、その接待婦として専属に雇われていたり、街道の宿屋で
給仕の女が売春をすることもあったようです。

その後、江戸時代には湯女風呂というものが流行し、そこには蒸し風呂があり、女たちが男の垢を落とし
もちろん体を売ったりしていたそうです。

公に認められた売春は16世紀後半、豊臣秀吉が大阪・京都で認可した遊郭で、現在では有名ですが吉原は広大な土地に周囲を堀で囲み、出入り口の門が一箇所しかなく、その門からしか外出出来ないようになっていました。

遊郭の中には何千人もの売春婦がいて、大名や商人、庶民がここでごった返すように遊ぶようになったそうです。

悲しい話ではありますが、もともと当時のそこで働く女の子は、地方などの貧しい地域で育った娘が、家の借金と引き換えに連れてこられたような子達ばかりで、連れてこられた場合、何年も親の借金のために売春を強要されたのです。

実に、連れてこられたときの年齢はほとんどの場合、14〜15歳で、また彼女らの死亡平均年齢は20代前半が多かったそうです。

吉原は幕府公認の遊郭として繁栄してゆきますが、その後料金の高さもあり、徐々に衰退してゆきます。

追い討ちを掛けるように明治五年「娼婦解放令」が発令され、遊女たちは自由になりますが、結局家に帰っても借金は残ったままで、貧乏には変わりない為、行く場所がなく結局女の子達はまた売春をする事に。

明治維新後、近代になっても相変わらず地方は貧しく、たくさんの女の娘たちが金と交換で貸座敷に連れてこられたそうです。

戦前、軍人たちはよく吉原などの貸屋敷で遊び、そして戦争がはじまると、兵士たちは出征の前に顔見知りの遊女に挨拶に行き夫婦になる約束などを誓ったそうです。また、徴兵されることになった15歳ほどの若い息子を連れて、父親が吉原に来たこともあったという話は各地で聞きます。

いくつもの美しい恋物語があったのかもしれませんね。

戦争が激しくなり、やがて空襲により吉原は全焼。遊女たちも多く焼死したそうですが、従軍慰安婦として海外に渡った女の子も数多く死んでいます。


平安時代〜室町時代の性風俗

平安時代〜室町時代の性風俗

平安時代に入ると、とうとう遊女(売春婦の前身)が登場。

遊女といっても江戸時代の遊郭のように廓内に閉じ込められ自由が無く、逃げ出せない、早死にといったような暗いものではなく、歌や舞を披露しおまけに性も売るという女性などが多くいたようで、自由勝手に貴族達の宴にいきなり集団で押しかけて歌を歌い金銭を貰ったり、売春をして貴族の身にまとっている着物をその場で貰ったりと、当時の遊女はかなり自由な振る舞いが出来たそうである(いきなり宴会に現れて歌を歌い股を広げて男を誘う女とは凄い女達である)。

平安中ごろには、白昼ふらふらと売春に出歩くものを「遊女」、夜になってから売春するものを「夜発」といっていたようです。その後、やがて遊女も夜発も同じ売春婦として認識されるようになり、このころ男性には快楽を求める趣向が強まる傾向にあり、各地に娼婦の集まる館ができていた。 白拍子などと呼ばれ、舞などをしながら性を売る女性で、姫などとも呼ばれたようです。


奈良時代〜平安時代の性風俗

奈良時代〜平安時代の性風俗

古代から時はずいぶん経過し、8世紀に入り奈良時代が来ると、天皇を中心とする政権体制が整い、国家精力は、北はは東北地方から暖かい九州南端にまでおよび、都を中心に大陸文化の影響が強い天平文化がさかえた。

そして巫女さんが行っていたような宗教的な意義が薄れ、徐々に売春(当時、言葉は未だ無いが)というものが職業化していった時代でもあり、これが遊行女婦というのだそうです。遊行女婦の名の由来は、巫女さんが当時全国各地を、めぐっていたことにより各地でこの名が付く事になったそうです。

その後、平安時代に入ると都では十万人以上の人々が生活しており非常に栄えていたようです、そこではどのような形式なのかは良くわかりませんが、もちろん女性も売られており、女性は身を売る代償に布や食料を受け取っていたようです。まだ少し宗教的な意味も若干ではあるが名残があり、都の「市」で身を売る事で、心身の汚れを清める作用があると信じられていたようで、夫がいても罪悪感は無く通りすがりの男達との性交をお楽しみ頂いたそうです。

9世紀ごろ当時、唐の国の長安で男の娼婦?が流行っており、遣唐使船に乗った僧が唐に渡り、新しい性交スタイル(男性と交わるスタイル)に味を占めてしまい、日本に帰国時、その性交スタイルを日本に広めたそうです。

当時のお坊さんは、女性と交わると厳しく罰せられていたそうです。(無理も無いか)


性風俗の歴史はるか古代・・・

吉原が誕生する以前のはるか昔・・・

売春の歴史は相当古いらしく、その当時はお金銭と交換に性行為を持つというより、行為自体が宗教的で現在とは全く違うものとして扱われていたそうです。

その昔、神に仕えている巫女は、神の申し子であると信じられおり、男達は巫女と性交を持つことで神に近づけるというような崇拝的な考えがあった為、不浄というようなものではなく、神がかり的な存在だったようです。

そして巫女から産み落とされた子供達はまた神の子として大切に育てられたそうです。

興味深い話ですが、「子宝」と言うのは、夫婦の間に出来る子供というのは、年老いてゆく自分達の畑を耕し、生きてゆく糧を生み出してくれる、まさしく「子宝」であったのでしょう。

夫婦の間に、その子宝の子供が出来ない、生まれないという事はお先真っ暗状態であり、解決法として、子供を拾ってきたり、または嫁に神主の子種を頂いたり、巫女さんに子供を生んでもらったりしていたそうです。

昔の巫女さんは、現在とは全く存在の意味は違いますが売春婦の先駆けのような人達で、どこの誰かもわからない子供を生みはしましたが、その子供達は神の子とされ、子供のいない夫婦の間に渡されたりしたそうです。

巫女さんはすごいんだ〜。ある意味天使かもしれない。

その当時はSTDがあったのかどうか定かではありません・・