性風俗の日本史概要
売春の歴史は相当古く、当時金銭と交換に性行為を持つというより、行為自体が宗教的であり、現在とは全く違うものとして扱われていた。男達は神に仕えている巫女と性交を持つことで神に近づけるというような崇拝的な考えがありました。
当時の巫女さんは、現在とは全く存在の意味は違いますが売春婦の先駆けのような人達で、どこの誰かもわからない子供を生みはしましたが、その子供達は神の子とされ、子供のいない夫婦の間に渡されたりしたそうです。
話は鎌倉時代にまで進みますが、当時のお金持ちや富豪の家には都の貴族や政府の高官が旅の途中立ち寄る習慣があり、その際、家の主人は自分の妻に泊まった人達の身の回りの世話や夜の相手までさせていたようです。
その後、客の接待には専属の女性を雇うように変化し鎌倉時代中期以降は、それが更に変化し金銭を目的とした売春に変わっていったようです。
また、港の商屋が顧客や船のり達を家に泊め、その接待婦として専属に雇われていたり、街道の宿屋で
給仕の女が売春をすることもあったようです。
その後、江戸時代には湯女風呂というものが流行し、そこには蒸し風呂があり、女たちが男の垢を落とし
もちろん体を売ったりしていたそうです。
公に認められた売春は16世紀後半、豊臣秀吉が大阪・京都で認可した遊郭で、現在では有名ですが吉原は広大な土地に周囲を堀で囲み、出入り口の門が一箇所しかなく、その門からしか外出出来ないようになっていました。
遊郭の中には何千人もの売春婦がいて、大名や商人、庶民がここでごった返すように遊ぶようになったそうです。
悲しい話ではありますが、もともと当時のそこで働く女の子は、地方などの貧しい地域で育った娘が、家の借金と引き換えに連れてこられたような子達ばかりで、連れてこられた場合、何年も親の借金のために売春を強要されたのです。
実に、連れてこられたときの年齢はほとんどの場合、14〜15歳で、また彼女らの死亡平均年齢は20代前半が多かったそうです。
吉原は幕府公認の遊郭として繁栄してゆきますが、その後料金の高さもあり、徐々に衰退してゆきます。
追い討ちを掛けるように明治五年「娼婦解放令」が発令され、遊女たちは自由になりますが、結局家に帰っても借金は残ったままで、貧乏には変わりない為、行く場所がなく結局女の子達はまた売春をする事に。
明治維新後、近代になっても相変わらず地方は貧しく、たくさんの女の娘たちが金と交換で貸座敷に連れてこられたそうです。
戦前、軍人たちはよく吉原などの貸屋敷で遊び、そして戦争がはじまると、兵士たちは出征の前に顔見知りの遊女に挨拶に行き夫婦になる約束などを誓ったそうです。また、徴兵されることになった15歳ほどの若い息子を連れて、父親が吉原に来たこともあったという話は各地で聞きます。
いくつもの美しい恋物語があったのかもしれませんね。
戦争が激しくなり、やがて空襲により吉原は全焼。遊女たちも多く焼死したそうですが、従軍慰安婦として海外に渡った女の子も数多く死んでいます。