〜江戸時代・吉原誕生
17世紀に入り、関が原の戦い以降、長く続いた政局不安は終わり、徳川家康が征夷大将軍に就くと自領である江戸の地に幕府を開き、産業・教育の振興その他の施策に力を入れます。
そして有名な吉原遊郭もこの時期に誕生します。
この時期江戸では50万人以上が生活しており、当時としては世界的に見ても大都市であったようです。当時、男女の人口比率は男性の方が圧倒的に多く、また、参勤交代で地方から男の武士達ばかりやってくるので江戸の町は本当に男だらけだったようで、当然あっちの方も元気なわけで、娼婦が街中に出没するのは自然の成り行きだったようです。
当時、大阪、駿河では既に幕府公認の遊郭があったが江戸にはまだ無く、風紀を統制する為、先の大阪、駿河に習い、遊郭を造り、そこへ娼婦などが集められた。
吉原というのは実は「元吉原」と「新吉原」があり、元々は日本橋葺屋町にあった湿地に作られたが、吉原遊郭歴史の中で営業していたのはたった四十年だけで、しかも昼間しか営業の許可がされておらず客層は昼間からうろうろしているような武士が中心だったそうです。その後、江戸は更に開発され繁栄し、元吉原が江戸の中心的な場所に存在していた為、幕府はその事を余り快く思っておらず、また、江戸の大火により吉原も全焼、それを機に江戸の端っこ、現在の地へと移されてしまったようです。と同時に違法の売春婦や売春宿も閉鎖され、あふれた売春婦も新しい吉原へ。
新吉原では、夜の営業が許されることになり、客層も武士から町人の客へと変化していきました。売春婦も増え、最終的に7000人を越えるまでになり、新しい吉原は幕府の公認の下、明治時代まで繁栄する事になったそうです。
現在一般的に「吉原」と呼ぶのは新吉原のことです。