江戸時代の性病・治療
梅毒は十五世紀になって、琉球、長崎、境のような貿易港から日本に上陸した。医療の発達していない当時の日本では、梅毒や伝染病に関しての治療は皆無に等しかったようですが、梅毒について言えば感染してもすぐに死んだりするわけではないので梅毒と上手に付き合うような気持ちを持って生きていた人が多かったようで、どちらかと言うと、病に対し冗談を言ったり親しむ傾向があったそうです。
当時、治療法と言えば現在のような抗生物質も無いため、薬として用いられたのは「山帰来」といって、茎のとげにサルが引っかかって人に捕らえられるというので 「猿捕りいばら」の別名がある植物で、漢方では梅毒に効くとされていましたがほとんど効果は無かったようです。
遊郭で身を売っている遊女が性病になり、仕事が出来なくなると別室へ移される、毛が抜け落ちて、治る事の無い病に耐えてじっとしているのだそうです。
吉原ではこれを「鳥屋につく」と言われ、遊女は妊娠することを嫌い、梅毒にかかることで妊娠しにくくなる為、一人前の遊女であると言われたようです。そんな遊女が懲りずにまだ身を売るわけですから、病気も蔓延します、恐ろしい話です。
また、良く客を取る売り上げの高く位の高い遊女なら自分の稼ぎを使い、別荘で養生することもができたようですが、人気の無い身分の低い遊女は、可愛そうですが暗くて寒いふとん部屋などに放り込んだまま放ったらかしで、食事も満足に与えていなかったようです。
また病状が進み容貌が崩れてしまうと、客も来なくなる為、遊女たちの値打ちが無くなり、追い出され、立ちんぼとして街角に出没したりしたそうです。
悲惨。